白老酒季128号
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知多の「下り酒」、江戸積み型酒造業の産地として

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Vol.53「下り酒と木桶講演会」と「東海木桶祭」、たくさんのご来場ありがとうございました
皆様、こんにちは。 田んぼの緑が日に日に濃くなり、東海地方も梅雨入りいたしました。
酒蔵では今年も梅仕事が始まりました。青梅の爽やかな香りが蔵いっぱいに広がり、スタッフ総出で梅の選別や仕込みを行っています。
毎年同じように見える梅仕事ですが、その年ごとの梅の出来や天候によって表情は様々です。今年は不作と台風の影響もありましたが、一生懸命収穫いただいた梅に、今年も美味しい梅酒や梅シロップになることを願いながら、一粒一粒丁寧に向き合っています。
そんな、梅酒の新酒「白老梅ヌーボー」の発売は9月17日(木)を予定しております。どうぞ楽しみにお待ちください。
さて、5月30日・31日に開催いたしました「下り酒と木桶講演会」と「東海木桶祭」には、多くの皆様にご来場いただき誠にありがとうございました。
講演会では、知多半島の酒造りや下り酒の歴史、木桶文化について改めて学ぶ機会となりました。
また、20年ぶりとなる甑(こしき)のタガ替えでは、木桶職人の皆様の技術に多くの方が見入り、文化を守り伝えることの大切さを実感する二日間となりました。
日本酒を飲む人だけではなく、発酵や地域文化、ものづくりに関心を持つ多くの方々と出会えたことは、私たちにとって大きな財産です。
これからも酒を醸すだけでなく、この土地の文化や歴史、人の営みを未来へつないでいく酒蔵でありたいと思います。
一方で、酒蔵を取り巻く環境は大きく変化しています。原料米や資材、物流費などの高騰が続いており、来月より一部商品の価格改定をお願いする予定です。
また、酒造り文化を未来へつなぐ取り組みの一つとして、今後クラウドファンディングにも挑戦する予定です。
皆様に楽しんでいただきながら、次の世代へ酒蔵文化をつないでいけるよう取り組んでまいりますので、ご理解とご協力をいただけますと幸いです。
これから暑い季節を迎えます。
「夏のうすにごり」「辛口特別純米ハゼラベル」「でらから純米無濾過生」など夏のお酒も揃いました。
また、梅シロップのご予約、酒粕や漬物用酒粕、そして白老の酒粕を食べて育ったお肉のギフトもご用意しております。
どうぞ皆様も健やかに初夏をお過ごしください。
2026年6月吉日
澤田酒造株式会社 澤田 薫

たくさんのご来場ありがとうございました!

Vol.72「10月はモンキーセンターさんで乾杯しましょう!」
5月9日、愛知県犬山市の日本モンキーセンターさんにて開催された恒例イベント「澤田酒造まつり・猿日」が開催されました。
私達が日本モンキーセンターさんとのコラボをスタートしたのは2021年。最初は「動物園と日本酒?」と驚かれることもありましたが、続けるうちに、この取り組みならではの意味が少しずつ見えてきました。
当日は限定酒『特別純米酒 さるの舞』を発売、さらに今回も東京・新宿荒木町の盟友 和酒 月肴 さん(日本モンキーセンターさんとロックンロールが大好き)にもご一緒いただき、会場は朝から良い熱気に包まれていました。
(同時開催の「JMCクリエーターズマーケット」もファンがつくる思いのこもったグッズも素敵)
そんな中で、特に印象に残った言葉があります。
「日本酒を飲んだことがなかったけど、モンキーセンターさんとのコラボ酒をきっかけに飲むようになりました」
この言葉が本当にうれしかったのです。
日本酒業界は今、決して簡単な時代ではありません。だからこそ、「日本酒が好きな人」に届けるだけでなく、「まだ飲んだことのない人」と出会うことが、とても大切だと思っています。
0を1にする。これは本当に難しい。
>けれど、お猿さんを見に来た人が日本酒に出会う。毎年東京で行っているライブ企画では、ライブを観に来た人が日本酒を飲む。本来なら交わらなかった場所で、日本酒が自然に存在していることに、大きな意味があるのだと思います。
そういった異業種との交流イベントは澤田酒造こそできることだと思っています。
しかも、この取り組みを通じてモンキーセンターさんの応援にも繋がっていく。単なるコラボ商品ではなく、人や場所、文化をゆるやかに繋ぐ役割を果たしている気がします。
2021年から続けてきた日本モンキーセンターさんとのコラボは、まさにそういう場所になってきました。
そして、日本モンキーセンターさんは2026年10月頃から長期休園に入る予定です。そのため、今年2026年10月初旬に予定されている「澤田酒造まつり」が、休園前最後の開催になる見込みです。
だからこそ、秋の開催は、今まで以上に特別な日になる気がしています。
是非、10月は犬山のモンキーセンターさんでお猿さんと日本酒で乾杯しましょう!
その五十四
明治時代の知多酒17 「知多の”下り酒”、江戸積み型酒造業の産地として」
5月末の弊社のイベント「下り酒と木桶、知多酒の未来をつなぐ2日間」には、ようこそたくさんの方々にお越しいただき誠にありがとうございました。
またもや時系列を無視した格好になりますが、この機会に「下り酒」について少し説明させていただきます。
「下り酒」とは江戸時代に、関西や中部地方から船で江戸に運ばれた酒のことです。
知多地方の酒造業が本格的に発展するのは江戸時代後期に入ってから、下り酒の仲間入りを果たしてからのことです。
それまでは地主が小作米の一部で酒を造り、地元を対象に売っていた「地酒型酒造業」という小規模な酒屋が多かった。その後元禄の頃から様々な要因で発展し、幕末には灘とほぼ肩を並べる「江戸積型酒造」の集積地となりました。
その主な要因として、海運業の発展と当時の幕藩体制など、酒造りを取り巻く背景を含めて簡単に述べてみます。
<海運>
戦国時代、当地域の海運業は盛り上がりを見せ、伊勢、志摩、熊野を経て、泉州、摂州などと往来し、上方先進地の政治、経済、文化などに接する機会が多々あり、これが後の酒造業の発展につながっていく。
元禄時代、知多では最大でも三百石で、百石以上の石高を上げているものは極めて少数であった(元禄十年酒株帳)。
しかし、この頃から尾張藩によって外洋航海が許され、大阪廻し、江戸廻しが始まった。
元禄8年から尾張手船の免許を半田、亀崎の海運業者が手に入れ、まず「多くは駿遠地方を主な販路として、或いは清水に、或は沼津地方に得意先をもってゐたものである(愛知縣特殊産業の由来)とあるが、すでに参、濃、勢州※とともに江戸積みが始まった。
※参州(さんしゅう)は三河国(現在の愛知県東部)、濃州(のうしゅう)は美濃国(現在の岐阜県南部)、勢州(せいしゅう)は伊勢国(現在の三重県中部・北部)
正徳期(1711~1716)には一軒で三千石以上の造石高を持つものが現れ(正徳五年酒造米高御改帳)、江戸積みにより規模が急拡大したことが分かる(享保9年(1724)には全国で1218件の下り酒屋があり、そのうち尾張は72軒、三河は57軒を占めている)。
これら大規模な酒蔵の建造には膨大な費用が必要であり、海運を営む者の資本によって起こされたものが少なくないといわれる。
「運搬」という本来の業務に加えて資本蓄積、市場開拓、情報の収集などに海運業が果たした役割は極めて大きい。
幕末には自らの采配で酒を売る商社機能(船頭支配荷、道売支配※)も発揮していて、海運の発展が知多の酒造業に大きな極めて大きな役割を発揮している。
※船頭支配荷(せんどうしはいに)とは、船頭が販売の権限(販路の開拓、荷揚げ先の選択、売上金の回収など)を一任されていた積荷のこと。道売(みちうり)は、船頭が航海中に寄港地や船上で直接行う商品の小売り、またはその商売方法を指します。
<幕藩体制と酒造政策>
当地の酒造業発展の直接の刺激となっているのは幕藩の酒造政策、いや幕藩体制そのものであると言える。
「大江戸」の出現はそれまでのどんな地方とも比較にならない巨大な市場を作り上げたが、それは幕府の手で全く新たに作り上げたものだけに、その莫大な需要は近郊の供給だけでは全く足らず、上方の供給に頼らざるを得なかった。その一部が(地理的により有利な)尾張からもまかなわれたのである。
上方から江戸に送られる酒を「下り酒」と呼ばれたが、この地方の酒は上方と江戸の中間にあたることから「中國酒」と言われている。
明暦3年(1657)の大火の復興費として膨大な費用が使われ、寛文年間の頃には幕府のさしもの備蓄金も使い果たされたため、政治も大名、旗本政策から社会経済及び財政面へ移る必要があった。
それまでの自給経済社会から交換経済社会へと大きく一歩を踏み出したと言える。
そもそも幕府経済の根底は米であった。
貨幣経済の転換に伴い、米価は高いほうが有利、諸色(=米以外)の物価は安いほうが有利という鉄則と矛盾が武士階級を大きく揺さぶった。そこで、幕府の経済政策は米価維持、特に米価下落阻止対策に力点が置かれ、市場の在米を棚上げにして需給をタイトに調整するため、大阪や江戸などの富商豪農に命じて市場の米を買い入れ、一定期間強制的に貯蔵せしめる方策を十二、三回行っている。
ここに至って酒造りは米遣いの産業として重要視されることとなった。
米の豊作の際には「勝手造り令」や酒造統制の緩和が打ち出され、凶作の時には酒造りは厳しく制限されるということが繰り返された(明治維新に至る196年間に61回の酒造制限令、6回の制限解除令が発令)。
同時に、幕府は「酒株※」を発行した。
※明暦の大火のため米価が暴騰し、折からの全国的な不作もあって食糧不安が訪れたため、幕府は一時酒造りを禁止し、新しく特定の業者に対してだけ米の使用高を明記した株を交付した
元禄12年、「五分の一造り令※」という減醸令が出され、64万樽の江戸入津樽数は、翌年22万樽に減少している。
しかし一見これは抑圧策のように思えるが、独占的特権を与え、自家醸造の道を閉ざすなど、酒造家の保護奨励を打ち出すものでもあった。
また、米価調節のみならず、見返りとして「酒運上」の課徴を行い幕府の財政を補おうとするものでもあった。
※近世灘酒經濟史によれば、「元禄十年の(株)改めの背後には、幕藩的な商品流通機構の拡大と大坂への全国からの廻米量の増大によって異常な発展膨張をきたしてきた酒造業を、米価調節に必要な造石高の基準を設定して、幕府の主導権のもとに直接これを掌握し、領主経済及び幕藩体制の存続維持の上から、酒造株体制の確立をはかったものであった」ということである。
寛政4年(1792)「下り酒十一ヶ国制」が布かれ、江戸積み酒造地を山城、河内、和泉、摂津、伊勢、尾張、美川、美濃、紀伊、播磨、丹波に限定し、更に総入津高を30万樽乃至40万樽に限定し、これを「御分量目当高」と称して、天明4~6年の実績に応じて割り振った。
これらを通して江戸積み酒造業は生産、流通とも幕府の掌中に握られていった。
具体的には寛政の改革の主眼は酒においては灘の生産を抑制することにあった。その間をぬって知多の酒造業は大きな発展を遂げていく。
一般民衆においても時代とともに生活に大きな変化が見られた。
農業の場合、近世初頭には6割6分にも及んでいた年貢率は、百年ほど後の正徳2年(1712)、2割8分9厘にまで下がっており、農民の手元に必要労働部分を上回る剰余が残るようになる。
この結果、商業的農業へと転換し特産物農業も発展し、また農民層の富裕層と貧富の差が拡大していく。またその剰余を巡って、それまでの封建勢力と密着した江戸時代初期の特権商人、いわゆる御用商人たちが、領主財政の困窮とともに没落し、農民の手元に残るようになった剰余品の流通を主として取り扱う新しい型の商人が現れた。
そして彼らは消費水準が高まるにつれ、瞬く間に膨大な利潤を得て巨大な商人に成長した。
半面、大江戸市場の出現が従来の狭い地域中心の商取引から、全国的規模の大量の商取引に変わっていく中で、全国的に各藩の財政状況は悪化していく。
財政窮乏は藩支払い貨幣の窮乏がその原因であり、この打開策として、綿布、和紙などのように藩外売価が相対的に高いものに力を注いだところもあるが、依然として米穀中心の経済構造を取り続ける藩が多かった。
尾張藩の場合、酒造政策にはことのほか力を入れていて、元禄期から「尾張手船」を設け、港湾の改築、補修にもあたっている。
酒だけでなく木綿についても、元禄5年(1692)安城村では畑面積のおよそ半分が綿作で、「不断たち池鯉鮒の宿の木綿市」という芭蕉の句があるように木綿の店頭売買が行われていたが、これらも知多の木綿同様、知多半島の東浦(半田、亀崎)の港から江戸に送られていた。
藩は、綿織りは知多、尾西、陶器は常滑、瀬戸の保護奨励にあたり、米穀中心の農業構造を改め、有利な商品的農産物の増産、およびその加工生産に努力して成功を収めている。
織物、焼き物含めて重量物の運搬には事欠かなかったことから、知多の海運は大いに発展した。それが酒の発展にも大きく寄与したといえよう。
天保(1836)以降、所謂江戸文化の華であった化政期※をこえ、天保7(1836)年株仲間の解散をはじめ、改革の中で幕府の酒造掌握政策は一段と強化された。
コメ価格はインフレーションのため高騰し、世情は黒船以来騒然となって酒の価格も思うように上げられない時代であった。
※江戸時代後期(文化・文政年間、1804〜1830年頃)の約30年間を指す
しかし、このころから知多の酒造業は絶頂期を迎えようとしており、弘化元年(1844)には下り酒屋120軒、8万8千樽を数えている。問屋仲間の解散は素人直売買を奨励するものであったから、知多の船主たちは酒の売買に積極的に活躍し、また増産を可能とする酒の新株の発行や、御神酒株が出されたこともあり、以後〝雨後の筍〟のように酒造家が増加した。
明治4年、従来の(株)札が廃止され免許観察が維新政府から下付されたが、その時の記録によれば、知多郡内には227(味醂110条を含む)の酒屋があり、推定約11万石の生産を上げていて(県下18万9千石、全国では296万石)この頃が知多半島の酒造業の絶頂期であった。
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