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白老酒季118号

□薫風 〜社長便り〜
□HIDE AWAY 〜酒蔵お婿さん通信〜
□会長だより
「明治時代の知多酒7
「明治時代、酒造組合結成の推移」


 

 

 

 

 

Vol.43「漬物製造、オリジナル酒器開発、直営店のリニューアル、一気にいろいろ動き始めます」 

 

入梅の候 皆様いかがお過ごしでしょうか。

今年は、全国的に梅の生育が早く不作のようです。
この原稿を書いている時は梅酒仕込みの直前ですが、今年も農家さんが一生懸命育ててくれた梅で美味しい梅酒や梅シロップを仕込むべく着々と準備をしています。

ところで、「漬物ショック」という言葉を聞いたことがありますか?

食品衛生法が改定となり、今まで梅干しなどの漬物製造に営業許可は不要でしたが、この6月からは営業許可を取得した施設で製造しなければ漬物を販売できなくなることから、いぶりがっこや梅干しなどの伝統的な漬物の存続が危ぶまれています。
当地でも例外ではなく、佐布里梅の農家さんの大半は梅干しの販売を断念されております。
このままでは、梅の生産が危機的状況になってしまう。その危機感から、澤田酒造では、使用していなかった母屋の台所を改修し、漬物製造業の免許を取得しました。
この6月からは昔ながらのしょっぱい梅干しを製造する予定です。

そして、蔵元直営店「澤田北倉」もリニューアルオープンが間近です。
構想より数年かけて、常滑焼と日本酒のペアリングセット「ささらけ」も完成しました(写真)。

そして、いよいよ蔵元のショップに加えていわゆる角打ち(テイスティング)コーナー・仕込み水の水汲み施設が誕生します。澤田酒造のお酒や酒粕はもちろん、地元の調味料や酒器、コラボのお菓子なども販売します。
当初よりも遅れておりますが、7月までには準備が整うと思いますのでぜひ楽しみにお待ちください。

今月号には、昨年インターナショナルワインチャレンジで銅賞を受賞した純米大吟醸「知多の花露」や副社長の一押し「勝盃」など、夏のギフトにお勧めのお酒を多数ご紹介しております。
また、夏酒として、「純米吟醸夏のうすにごり生酒」「辛口特別純米酒はぜラベル」も好評です!キリっと冷やしてお召し上がりくださいね。
限定たぬきラベルの「でらから純米無濾過生原酒」も発売中、お見逃しなく。
そして、毎年大人気の梅シロップもぜひご予約をお待ちしております。
人気の酒粕育ちのお肉のシリーズは、ホームページのショッピングサイトで発売しております。ぜひ合わせてご覧くださいませ。

さて、今年もきっと暑い夏がやってきますが、皆様どうかお元気でお過ごしくださいね!


澤田酒造株式会社 澤田 薫

「白老」の特徴を最大限に活かす酒器「ささらけ」の体験会にて

 


 

Vol.62

 

念願の「大吟醸 白老 勝盃(かちはい)」がいよいよ一般販売になります。
この「勝盃」は私達のご先祖様、寛政四年(1792年)初代澤田儀左衛門が起こし、私達にとっては本家の酒蔵「本倉」の屋号です。北倉と言われていた現在の白老は次男の儀平治が1848年に創業したので本倉は56年も早く酒造業をはじめておりました。

儀左衛門さん率いる本倉は当時古場の村に8蔵あった酒蔵の中心で三代目は公人としても大活躍。村長や知多商工会会頭を務めるなど地域のリーダーでもありました。
本倉は太平洋戦争による食糧事情や統制により昭和18年頃には残念ながら無くなってしまいました。

私が保存してあった昔のラベルの山の中に、素晴らしい意匠の物が目に飛び込んできて、大げさでなく浮かび上がって見えたのがこの勝盃のラベルなのです。
「これはご先祖様が引き合わせてくれたのでは?」と出会った瞬間から、私はこの大看板を引き継ぎたいと思い始めたのです。

毎日毎日、一瞬一瞬、日々の生活に溢れる勝負事。
勝っても負けても学びを得て生きていく。


この「勝盃」はそんな暮らしの中「ここぞ」という時に寄り添うお酒でありたいと思い、それにふさわしい代々続く白老の技術の粋を集めて醸した大吟醸です。

オリンピックイヤーでもある2024年。贈り物にも最適ですので、是非お買求め下さい。

古場に8蔵存在した酒造家澤田家の初代「儀左右衛門」が創業した澤田本倉の屋号を受け継いだ大吟醸「勝盃」。販売もスタートしました。

 

 


 

その四十四
明治時代の知多酒6
「明治時代、酒造組合結成の推移」

 

明治時代、酒造組合結成の推移 豊醸組結成の前に、明治維新後の全国の組合の結成という視点で状況を再度振り返ってみます。

江戸時代における「酒株制度」はその世襲的独占の特権のため、酒造りにおいても商取引においても不合理に抑圧する弊害が多大であったため、維新政府は経済の近代化促進のためにこの特権的独占体制を廃止しました。

その結果新たに酒造業を開始するものが相次ぎましたが、これは従来の酒造株仲間組合の解体、修正を意味していました。
とはいえ業者間の連絡協議などの必要から、新しい形での組合の設立運動はすでに明治6年大阪で始まりました。続いて灘五郷などでもその動きがあったものの政府はこれらの動きを抑えようとします。
ところが明治13年これまでの方針を変更し「酒造営業人心得書」を布達、酒造業組合規則が明示されます。政府が酒造組合を通じて酒造業界を支配していこうとする意図であったことは前述した通りです。

明治17年、同業組合準則が出されます。これは明治6、7年ごろから澎湃(ほうはい)として起こった各種業態別の組合が〝玉石同架混淆炸裂〟したのでその整備を図るとともに、折からの不況にあえぐ農中商工業振興を目的としたものでした。これまでの直訳的な西欧的近代産業の導入移植中心の施策が国際収支の膨大な赤字を生んだことを反省し、改めて殖産興業の重点を広く従来産業に対する新時代的発達試練の施策に転換したものでした。

この準則が通達されるや俄然各地に組合熱が流行し、全国的にその機運が促進されていきます。その中で知多の豊醸組(明治19年)、山形県大山酒造組合(明治18年)、福岡県酒造組合(明治22年)などは先進的な連合組織の形式をとっています。
明治29年には法律第28号「酒造税法中改正」の付則に「酒類ヲ製造スル者ハ府県モシクハ税務署管内ヲ一地域トシテ酒造組合ヲ設クヘシ…」と規定され、次いで明治32年勅令第340号をもって酒造組合規則が交付され、酒造仲間は法制組合となっていく。
ただ実際はなかなか進まず、明治33年組織完了したものはやっと過半数に過ぎなかったのですが、全国組織の結成に向けて豊醸組は大きな力を発揮していきます。

明治24年2月、二府二十二県関西酒造家連合会と関東一府十九県酒造家連合会は上野において全国酒造家懇親会を開催、ここに東西酒造業者の大同団結の一歩が踏み出されます。この議事録によれば知多からは稲生治右衛門が出席し、傍聴人として灘酒造組合理事らとともに、豊醸組頭取天野(埜)伊左衛門の名が見えています。
この発起大会に続き第二回大会が名古屋で同年5月5日に開催されていきます。
これについては次号に記します。

 

 

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明治時代の知多酒3「明治初期の社会情勢、自由民権運動へ」

明治時代の知多酒4「明治中期の社会情勢、豊醸組の結成」

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明治時代の知多酒6 「同盟休醸」のこと

 


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