明治時代の知多酒その1「豊醸組の結成以前」
しばらく中断しておりましたが、知多酒の歴史について素人の考察を書かせていただきます。
江戸時代の後期、日本で二番目の大きな産地に成長した知多の酒造業ですが、明治時代の環境の変化によってとてつもなく大きな波を受けることになります。
今回は今までの続きではなく、途中をはしょって明治時代の豊醸組の結成とその背景を何度かにわたって書いてみます。
「清酒濁酒醤油鑑札収与並収税方法規則」が発せられて酒株が廃止され、翌明治5年清酒造鑑札が発行されましたが、その時の記録から当時の知多郡内の酒屋の情勢が分かります。それによれば清酒造鑑札を買い受けたものは、味醂10場を含み実に227場にのぼります。その時の造石高(生産数量)は半田町史によると約11万石という巨大なものでした。
因みに明治5年の日本最大の産地灘五郷の製造石数は183千石(灘酒沿革史)であり、群を抜いて日本の酒造業を知多と二分していたと言えます。
明治5年額田県は半官半民の公立物産会社を設置し、酒造業も管轄下に収めるとともに、新立の納税思想を徹底し税金を遺漏なく取り立てるために、知多郡を五つの部落に分けてそれぞれに製醸係を置いて官の収税に協力させました。
その五つの名称は
・名醸組(有松~岩滑係/亀崎村 伊東孫衛門)
・佳醸組(半田~北方係/半田村 小栗富次郎)
・芳醸組(河和~不明係/東端村 前野平五郎)
・醇醸組(上野間~大野係/古場村 澤田儀左衛門)
・美醸組(岡田~大高係/大高村 久野惣助)
です。
次回はその当時の時代背景について触れたいと思います。ただ、当局との壮絶な闘いの歴史になるのでいささか気が重いのですが。
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