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主にマスコミ関係の方々を中心に構成されている「酒のペンクラブ」という会があります。
月刊で「酒だより」という機関誌を発行されています。

その中に伊藤善資さんという出版社OBでエッセイストの方が執筆された「聖なる飲み物 日本酒歴史ものがたり」というコラムがありました。
なんとなく目を通しておりましたところ、知多の酒造家についての記述があり、なんとも誇らしい内容でしたのでご紹介をさせていただきます。

「近代日本酒を創った人々」という章で、ちょうど弊社の会長が会報誌「白老酒季」で書いているコラムに近い年代のことが触れられておりました。

知多の酒造家組合「豊釀組」と江田鎌次郎技師により開発された速醸酛が、全国の酒造家に普及されて腐造発生を大幅に減らし、現在の酒造りの主流になって行ったことは文献などでも知っておりましたが、さらに驚く内容が記載されておりました。

以下は要約です


明治時代半ば、酒造技術の改良を目指し、各地で酒造家有志の会が設立されていった。

その中には、吟醸造りで一躍脚光を浴び、日本三大酒どころといわれれるようになった広島もある。

当初、灘流の酒造りを目指したものの、硬水の灘と軟水の広島では条件が異なり、どうしても灘の品質に及ばない。

そこで軟水に適した独自の酒造りを探求することになったのだそう。

研究の合間をぬって彼らが視察を行ったのが、当時先進酒造地として知られていた知多。一足先に知多の豊釀組が進めていた「低温発酵法」を目の当たりにし、さらに改良を加えたようだ。

江戸時代から銘醸地として知られ、海運で栄えた土地柄からか世間の情勢に機敏だった知多の酒造家たちは、醸造技術や販路の拡大など研究熱心だった。消費者の嗜好にあった酒質も精力的に探求されていた。

そんな知多の酒造技術の核心は「低温仕込み」と「低温発酵」にあった。いわゆる長期低温発酵であり、今でいう吟醸造りということになる。

のちに広島で花開く長期低温発酵技術は、知多の酒造りにならったものと考えられ、知多流の酒造りが吟醸酒の源流になったともいえる。

日本近代の酒造法に大きな足跡を残した知多の酒造業だが、その後、輸送手段の変化や新興勢力の伏見などとの競争に勝てず次第に衰退していった。


 

知多の酒造技術が現在の吟醸造りの源流になっているのかもしれないと思うととても誇らしく思います。
自分たちの蔵の成り立ちにもっと自信を持って良いのではないかと。

一方で、先人たちはそれだけ市場をよく観察して研究熱心だったということであり、今を生きる私たちも、その精神に学びしっかり受け継いでいきたいと心新たに思う今日この頃です。

 

 

追記(2024年3月21日)

 

このコラムについてある方と話していたところ、

「米が特別豊富に穫れるわけではなく、良質な水の確保にも苦労した地域がこれだけの酒どころになった。もちろん藩の政策や地理的なこともあったと思うけれど、危機に直面し、産業技術として日本酒造りに向き合った地域なんですよ。」

と言われました。
ものづくりの愛知県。
この地域に綿々と受け継がれている資質なのかもしれず、大事にしなければと心底思いました。